鳥見徒然草

このコーナーでは、日ごろ私が気になっている、バードウォッチングや自然保護問題に関する話題をとりとめもなく書いてみようと思います。なお、ここで書いている内容は個人的な見解によるものですが、誤解等ありましたら、管理人までお知らせ下さい。

Topic 6  バードウォッチャーの地域性
Topic 5  環境における類似性
Topic 4 増えている鳥、減っている鳥
Topic 3 野鳥保護団体について
Topic 2 分類学について
Topic 1 最近のバードウォッチングの傾向

Topic 6 バードウォッチャーの地域性
 バードウォッチングは双眼鏡と図鑑さえあれば(あるいはそれすらなくても)楽しめる、準備のあまりいらない趣味だ。そのためなのか、あるいは単純に鳥の姿の美しさを愛でるのは万国共通なのか、バードウォッチングをする人口は世界的に見るとかなり大きい。人口比率で見ると、恐らく欧米が他の地域を圧倒しているだろうが、面白いのはインドである。GNPが1000ドルにも満たない、まだまだ途上国という印象のインドのバードウォッチャー人口は驚くほど多いという。以前、アジア水禽センサスのコーディネーターをしていたことがあったが、双眼鏡などの器具を持たないのにセンサスに参加する人がいるらしいことを聞いた。
 話が少しそれたが、海外での鳥見歴が長くなり、外国のバードウォッチャーを案内する機会も増え、あることに気がついた。必ずしもというわけではないが、バードウォッチャーにもお国柄というのがあるらしいのだ。
 まずは、イギリス。節制を常とする国柄からか、カメラなど高価な道具を持っている人はあまりいない。双眼鏡と図鑑が基本。但し、双眼鏡は良いものを大事に使っている人が多いように見受けられる。彼らは見たいと思った鳥を見るためなら、食事を抜いてもかまわないらしい。私の友人はマレーシアで鳥を見ているとき、三食バナナで過ごしたという。食事を食べる時間も惜しんで、ただひたすら見たい鳥が出てくるのをじっと待っていたりする。傍を通りかかって、声をかけようものなら無言で睨み返してくることすらある。香港のマイポで出会ったイギリス人バードウォッチャー達は、ハイドの中でただ無言で一日中望遠鏡を眺めていたが、楽しいんだろうか。ただ、そこまで徹底しているからなのか、彼らの観察力には脱帽してしまう。細かい羽の模様から、ちょっとした声のトーンの違いまで識別するのが彼らだ。他のヨーロッパの国のバードウォッチャーは多少の違いはあるものの、これに準じているように見える。
 対するアメリカ人だが、ヨーロッパ系の人たちのような、ストイックな鳥の見方はこの国の人たちはしない。馬鹿でかい声を出しながら、足音を気にせず、お金を出して雇ったガイドが鳥を見つけてくれるのを後ろで待っている。見てしまえばそれで良いらしい。自分が識別できようが、できまいが、見たという事実が大事なようだ。この国の人たちは観察することよりも、カメラやビデオを持ってきて撮影することを楽しむ傾向が強い。カメラはNikonのF5だったりするのに、双眼鏡は無名のメーカーだったりする。ちょっと北東アジアのどこかの国の人たちに似ている。
 面白いのはシンガポールやマレーシアの中国人たち。この人たちは観察よりも、カメラやビデオで撮影するのが好きらしい。仲間と鳥を見に出かけても、前にどこそこで何をビデオに撮ったという自慢話を大きな声でしている。鳥は探さなくても良いらしい。誰かが見つけてくれた鳥をビデオに収めれば、一月くらいは自慢ができるというところだろうか。前に友人の友人がビデオに撮った鳥が分らないと言って、見せてもらったことがある。ビデオに写っていたのはマレーヒメアオヒタキ。ちょっと識別能力のある人なら、他のヒメアオヒタキとの識別は難しくない。こんな出鱈目な人たちでも、機械の操作能力には長けている。彼らが撮ったムラサキヤイロチョウやアカエリキヌバネドリの映像は見ごたえのあるものばかりだ。
 さて、日本人はどうだろう。珍鳥探しが好きなのはヨーロッパの人たちに、機材に凝るのはアメリカ人やシンガポール人に似ている。日本人バードウォッチャーの国柄といえば、団体行動の上手さだろうか。珍鳥が出ているときに、上手に場所を譲り合い、皆が不快な思いをしないように一緒に鳥を見られるのが日本人バードウォッチャーかもしれない。
 来年(2005年)1月に仕事でインドに行くことになった。自己主張の強いインド人たちがどのようにバードウォッチングをするのかを見るのが今から楽しみだ。

Topic 5 環境における類似性
 バードウォッチングをする人はどんなことに関心を持って鳥を見ているのだろう。「見たことのない鳥を見たい」というのは、バードウォッチャーの誰もが持つ感情ではないか。最近は珍鳥が出たと言っても、全く出かけなくなった私も見たことのない鳥を見るのは好きだ。理由は色々あるのだが、最近は図鑑で見る鳥が、一体どんな動きをし、どんな環境に住んでいるかに一番関心がある。アフリカにいるPennant-winged Nightjar(ラケットヨタカ?)の初列風切の飾り羽にどんな意味があるのか、どんな風に使われているのか、ベニジュケイのオスのディスプレイはどんなものなのか、興味は尽きない。
 もう一つ、興味深いのは、全く違ったグループ同士に類似性が見つかることである。例えば、オーストラリアのヤブムシクイ(scrubwren)は、オーストラリア固有のグループだが、生息環境(熱帯、温帯林の林床)、習性(小群で昆虫を捕食する)、外見(足は長め、尾は短め、嘴は細長い)のいずれも、東南アジアのチメドリ、特にjungle babblerと呼ばれるグループによく似ている。コスタリカに行くと、やはり同じように地味な体色をし、小群で地上近くをごそごそと移動するアリドリの仲間がいる。川沿いに住む鳥には、なぜか、尾羽を上下に振り、白黒のコントラストのある種が多い。セキレイ類、エンビシキチョウ(forktail)類、中米のBuff-rumped Warbler等。よく知られたところでは、flycatcherと名のつく、旧世界のヒタキ類、東南アジア、オーストラリア、アフリカのカササギヒタキ類、新世界のタイランチョウ類は、お互いに習性がよく似ている。これらは、通常、進化の過程で全く異なったグループの鳥が、たまたま似た形態に進化してきたからと考えられている。確かに、その通りなのだが、やはり直に目にして類似性を見つけると、全く関係のない、チメドリとヤブムシクイの生態系における役割の共通点が見えてきて、面白いものである。
 進化論については、今は必ずしも全てが正しいとされているわけではないが、環境による適応を実感できるのも、海外でバードウォッチングをする醍醐味だ。

Topic4 増えている鳥、減っている鳥: ルリビタキとミヤマホオジロ
 バードウォッチングを10年以上もやっていると、古い友人と顔を合わせる度に、最近の鳥の傾向が話題になる。夏鳥については、この十年来声高に叫ばれているので、意識している人も多いんじゃないかと思うが、冬鳥や旅鳥の変化も目につく。旅鳥、なかでもシギ・チドリ類の全国規模での減少は目立つ。明らかに環境がなくなってきているからで、当たり前といえば当たり前だ。干潟性のもの、内陸性のものの両方が減っており、以前は普通に見かけたオバシギ、ウズラシギ、ツルシギ、タカブシギなどは最近めっきり見る機会が減ったように思う。
 冬鳥では、夏鳥と同じように、小鳥類の変化が気になる。渡り鳥なので、年による増減はあるものの、最近すっかり目にしなくなった鳥がいる。あくまでも個人的な見解だが、筆頭はミヤマホオジロである。少なくとも10年位前までは平地から低山地、山地の雑木林、落葉樹林などの明るい林や疎林部に普通に見かけたものである。妙見山や箕面、神戸森林植物園など関西の林では10羽から時には数十羽の群れを毎年のように見ることができた。ところが、妙見山では昨シーズンは出ていないし、最近はほとんど目にすることもないという。私がよく訪れる茨木弁天でも昨シーズンはわずかに3羽が越冬しただけで、10年前には20-40羽程度シーズンを通して見られたのと比べると目に見えて減っている。同様の環境で見られるカシラダカにさほど大きな変化が見られないことから、日本での環境の変化が直接起因しているとは考えにくい。一方、類似した環境に見られるルリビタキは最近微増しているように思う。冬場もテリトリーを持ち、単独で行動することから、群性の強いホオジロ類のように一度に沢山を見ることはない。しかし、10年前くらいであれば、妙見山のコースで4−5羽を見れば充分多い方だったろうが、今ならその倍くらいを見ることが出来る。茨木弁天では越冬するのはせいぜい2羽だったが、今では4-5羽は見られ、お互いのテリトリーが狭くなっているのか、個体同士の喧嘩を昨冬は頻繁に目にした。今年もこの傾向は変わらないようで、先日訪れた出灰では、2時間歩いて4羽を観察し、その他数羽の声を聞いた。
 環境は異なるが、面白い傾向を見せているのはツリスガラ。少なくとも20年以上前は珍鳥の部類に入っていたが、70年代より徐々に分布を広げ、90年代前半には関東地方でまで見られるようなって、西南日本では普通種の扱いを受けるまでになった。しかし、その後再び減少に転じているようで、例えば昨シーズンは出水ですらわずかに1羽しか見られていなかった。
 目に見えて増えているのはコクマルガラスとミヤマガラス。どちらも以前は九州中心に渡来していたが、今では東北地方でも見られるようになっている。
 個体数の増減がある場合、とかく環境破壊や狩猟問題が槍玉に挙げられるが、単純にそれだけが原因ではないと思う。オーストラリアに生息するキキョウインコは今世紀の間に減少と増加を繰り返しており、一時期は絶滅まで推測されたほどだが、現在では適当な環境であれば少なからず目にできる。鳥の世界はまだまだ分からないことが多い。

Topic 3 野鳥保護団体について
 先日、ある国内野鳥保護団体の内部で紛争があり、アジア地域で野鳥保護に多大な尽力を尽くしてこられた方が失脚した。とかく日本のNGOは組織が大きくなると内紛が起きて、弱体化していく傾向が強い。こういったつまらないことで、自然保護に従事している団体が信頼を失うのは残念なことだ。
 さて、本題である。日本のバードウォッチャー人口が増加していることは先に述べたとおりである。しかし、野鳥保護団体の人口の伸びは、それに比例していない。日本野鳥の会の会員数はせいぜい6万人。近年はあまり伸びていない。イギリスのRSPBの会員数は40万人を超えているという。日本の人口は1億2000万を超えているのに対し、イギリスはたかだか4000万人ほど。ということは、イギリスでは100人に一人はRSPBの会員という計算になる。
 会誌の出版、サンクチュアリなどの維持・管理、研究事業などの実施・・・。野鳥保護団体の活動内容は幅広い。しかしながら、すぐに実績の上がらない活動も多い。数年間かかるような地道な事業の方が多いかもしれない。したがって、40万人という会員の力は大きい。会費と会員からの募金で会の活動の多くを支えることが出来る。現在、日本の野鳥保護団体の活動がジリ貧なのはここにも一因がある。数万人程度の会員数では、会誌を出しているだけでも下手をすると赤字らしい。
 なぜ会員が増えないのか、なぜ日本で野鳥保護活動があまり活発化しないのか、イギリスやアメリカで野鳥保護活動が政治を動かすまで力を持っているのか・・・。日本では身近な野鳥が地味だから?確かに、ヒヨドリやムクドリやカラス類じゃ親しみは湧かないかもしれない。宗教的なバックグラウンドによるもの?キリスト教文化圏の国では、確かに募金という考え方は定着しやすいかもしれない。しかし、どちらも決定的な要因とは言えなさそうだ。
 野鳥保護団体側が行う活動や保護団体そのものの姿勢には理由はないのだろうか。たとえば、日本野鳥の会が行っている里山保全活動や、アジアの野鳥のレッドデータブック編纂は保全活動、研究活動として成果は上げているが、国内での認知度は案外低いのではないだろうか。成果はきちんと発表されているし、目的の説明を行われている。しかし、認知度が低く、会員から事業に対する不平が出ているところをみると、説明が上手くなされていないのだろう。野鳥の会に限って言えば、様々なイベントを通して、会の活動に対する理解、会員増加の試みは行われている。バードソン、WBC、バードウォッチング・ウィークなど、一般ウケしそうなものもある。ただ、結果が伴わないのは、説明不足なのだろう。バードソンやバードウォッチングウィークは普段野鳥を見ない人にも野鳥を見てもらったり、野鳥保護に理解を示してもらう絶好の機会と位置付けられている。しかし、例えば、バードソンのフォローアップはいささか心もとない。バードソン終了の案内と、募金がどのように使われるかという簡単な案内を書いたペーパーが一枚送られてくるだけで、さらなる好奇心を刺激するにはいささか心もとない。
 会員数が少ないので、会の活動費を毎年助成団体からの助成に頼らなければならない、予算が不確定なので長期的な事業を実施できない、目先の活動しかできないので大きな成果が上がらない、従って保護団体の活動が目立たないという悪循環が今の野鳥保護団体の現状かもしれない。各団体は各々の活動を行うため、毎年多大なエネルギーを予算確保に費やしている。助成を受けるためには、ある程度助成団体にとってキャッチ-な申込書も書くのではないだろうか。結果として、会員に目を向けるより、助成団体や業務委託先への配慮が先立ち、保護団体と会員の間の意思疎通が上手く図れていない気がする。
 また、業務委託先にしろ、助成団体にしろ、野鳥保護、広くは環境保全活動に対する助成については、ほとんどが事業請負先の運営経費や職員の給料の支払いを許可していない。本題から外れるのでこれ以上詳しく述べないが、職員の給料の調達に四苦八苦している自然保護団体にとって、事業の請負が団体の活動の幅を広げることは決してない。従って、いつでも必要最小限以上の人員をもって活動を行うことはできないのである。
 これら様々な要因が示すように、野鳥保護団体の現状は決して明るくはない。それぞれの側面が変わっていってこそ初めて、イギリスやアメリカのような強い影響力をもった野鳥保護団体が出来上がるのかもしれない。

Topic 2 分類学について
 バードウォッチャーの楽しみの一つに、新しい種を見て、リストを増やすことがある。私自身、リストを作成して、新しい種を見たら更新している。熱心なバードウォッチャーに男性が多いのは、このリストを増やすという行為が狩猟本能を刺激するからだとする見解があるが、頷けないこともない。
 従って、バードウォッチャーの多くは新しい種を見ることに非常に熱心で、Topic1でも述べたように、あらゆる情報を使ってでも新しい種を見ようとする。また、新知見により、種の分類が整理されてこれまで亜種レベルだったものが種レベルの扱いを受けるようになると、リストの整理を行う人もいるようであるし、わざわざ出来る限り多くカウントするように、様々な知見を拾って、種レベルの学説のあるものならなんでも種にしている人もいるらしい。
 さて、やたらなんでも種にしたがる人のことを"spliter"と呼ぶのだが、この傾向はアメリカで盛んのようだ。アメリカの種区分の方法はわかりやすいが、野外識別を困難にしている。この極めつけがタイランチョウの仲間で、Empidonax属のタイランチョウは野外ではほとんど識別できない。野外識別できるか出来ないかが種の分岐点だという人がいるが、科学的根拠はないものの、同感である。一方、引っ付けたがる人もおり、その傾向の強いオーストラリアでは、どう見ても全然別種と思われる黄色のインコと赤のインコや、青い光沢を持った鳥と黒い光沢を持った鳥が同一種になっている。
 日本でも最近分類を分けたがる傾向が強く、「カモメ識別ハンドブック」や「日本の野鳥590」では、従来とは異なった分類を行っている。これはこれで画期的なだし、新しい説を積極的に取り入れていくことは必要ではあるが、少し気になることがある。それは、複数の分類学を取り混ぜて採用している人や本があることである。できる限り多くの種をリストに入れようとするからか、ある学説でAという種の一亜種Bとなっているが、DはCと別種とみなす学説とこれとは逆の見解をする学説の最大数を取れば、種類数は確かに増える。しかし、分類学そのものに分類する理由がある限り、このような作業は科学的根拠を無視した危険な行為になりかねない。果たして、タイランチョウ類がそれぞれ一つの種とするべきなのか、幾つかの種にまとめるべきなのか、赤と黄色のインコはどうなのか、これらは私たち鳥を見る人間でも、鳥類学者でもなく、分類学者が判断すべきことであろう。
 今、世界の分類学は統一化されていない。従ってアメリカとオーストラリアでほとんど逆ともいえる動きが起こっていて、複数の学説が入り乱れているように感じる。しかし、私たち一般のバードウォッチャーがそのことにいちいち留意する必要はないのではなかろうか。セグロカモメとホイグリンカモメが同一種であろうが別種であろうが、その個体やその亜種なり種なりになんの違いがあるわけではない。単純に観察をして違いを楽しむのが一番良いと思う。

Topic1 最近のバードウォッチングの傾向
 昨年の8月に帰国して、時々国内でも探鳥にでかけるようになった。1994年にオーストラリアへ行ってから、日本国内での探鳥の回数はぐっと減ったし、舳倉島や飛島、沖縄や北海道という、バードウォッチャーが集まるところへもほとんど全く出かけていない。わずかに伊豆沼へ行っていたくらいか。
 以前から少しずつ気になっていたことだが、今回の帰国で改めて認識したことがある。それは、バードウォッチングスタイルの明らかな変化である。5年間と比べると、恐ろしいほど情報化が進んでいる。どこぞの首相がIT化と騒いでいるが、バードウォッチング業界のIT化を見ると頬が緩むんじゃなかろうか。
 余談はさておき、鳥屋の情報化はすさまじい。フィールドスコープを通してデジタルカメラで撮った写真をその場で加工して、B5ノートのパソコンに読み込み、現場から写真を添付して送る。受け取る方は受け取る方で、携帯をカチャカチャやりながら、常に情報が入ってこないかスクランブル体制を取っている。友人Kはその道に染まっている人間だが、携帯の扱いはコギャル並みである。
 その結果、珍鳥の取りこぼしは5年前、10年前と比べると、圧倒的に少なくなった。西ノ宮のアビ&マダラウミスズメ、箕面のクビワキンクロ、一昨年年末の愛知のオジロビタキやクビワコウテンシ・・・。情報が入って数日で恐ろしいほどの人がたかっていた。アビやマダラウミスズメにあれだけの人が集まるのには驚かされた。アビは確かに近くで見る機会は少ないが、400種も見ている人が何人も「マダラウミスズメを初めて見た」と言っていたが、関西近辺だと石川県では冬に普通に目にする鳥である。
 さらに驚かされたのは、人の集中度の高さである。アビを見てから10日ほどして西ノ宮に行ったところ、11月末には100名以上はいたのが、たったの10数人しかいなかった。鳥は遠かったものの、ちゃんといたのに・・・。余談を言えば、正月頃に行った時には私と友人の二人しかいなかった。皆一度見たら見に行かないのだろう。
 この情報化の恩恵を被ってか、バードウォッチャー一人当たりの観察種類数も圧倒的に増えた。かつては400種も見ている人は指折り数えるほどしかいなかったものだが、今では5年も見ていない人でも400種以上も見ていたりする。その気になれば、一年間で350種も見ている人もいるようだ。
 ただ、これがバードウォッチャー全体のレベル向上につながったかと言えば、そうでもないような気がする。種類は見ているものの、意外に鳥を知らない人が多い。人から聞いたものを見て種類数を増やすことができるので、自分で文献を調べて、判断する作業をする機会は以前よりも少なくなった。なまじっか珍鳥の話を頻繁に耳にするからか、誤認も多いらしい。
 また、珍鳥以外の鳥に関する知識が乏しい人も多くなった。某友人は既に400種以上見ているが、あるとき、彼と箕面で鳥を見ていたときのこと。ススキの草地からの「ビャッ、ビャッ」という声に、「なんですかねぇ、アトリかなんかですかねぇ」という友人に驚かされた。確かにあまり頻繁には出さない声ではあるが、ホオジロの地鳴きとして私には当たり前のように認識していたことだったからである。前述のマダラウミスズメの件にしても、釧路航路なり、お決まりのルートに数回乗って見ていないので、400種を超えてもまだという人がだいぶいたようである。これは自分で探さないからで、金沢港傍の埋立地など、冬の日本海側でちょっと高い堤防に上って探せば案外見つかる鳥である。クマタカ、ヤマドリ、アカショウビンなどを見逃している人も少なくないだろう。マダラウミスズメにしてもそうだが、探さないと見られない鳥については、以前よりも情報が減っている気がする。たぶん、探す人が減ったのだろう。珍鳥派の友人に鳥を見に行こうという話をすると、「なにもいない」という妙な返事が返ってくることが多いが、「珍鳥の情報がないから見に行くものがない」という意味なのだろう。普段は自分で鳥を見に行かずに、iモードで珍鳥情報が入るのを待っている人は予想以上に多そうだ。自分で鳥を探し出して見つけるという過程の繰り返しなしには識別力も上がっていかないだろう。
 情報化により一番大きく変わったのは、バードウォッチングのスタイルそのものかもしれない。いまや自分で鳥を探すのではなく、人から仕入れた情報を元に確実に種類を積み重ねていくバードウォッチャーが主流となりつつある。しかし、みんなが見ている鳥をみんなと同じように写真に撮ってなにが面白いのだろうか。カメラ、レンズ、フィルム、撮影者が違うだけで、後はなにも変わらない。バードウォッチングの本来の醍醐味のひとつは思わぬところで思わぬ鳥と出会うことで、それが珍鳥であれ普通種であれ、関係なかったように思う。見逃したときの悔しさ、取り残された感覚だけが強くなって、確実な種類稼ぎに走ってしまった今の日本のバードウォッチングにはどうもついていけない。餌付けされて人に慣れてしまったオガワコマドリやサバクヒタキを見た時よりも、毎年家の近くでひっそりと越冬しているクロジの雄を見つけたときの方が感動が大きいのは私だけだろうか。

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